日本語は不自由だ

 こないだ、「難しい」を敬体にするときに、「難しいです」はなんだか恥ずかしいし、「困難です」は実現可能性の低さが「難しい」よりもかなり低い気がしてしまうし、「難しゅうございます」は丁寧すぎるし、どうすればいいんだ、という話をTwitter書いた
 メールであれば「難しいです」一択なんだけど、多少かしこまった、後に残る文章を書くのであれば、おそらく私は「困難です」を選ぶと思う。だけど、実際のところ、「困難です」では自分が「難しい」を敬体にしたい、と考えた場合のニュアンスが実現されていないように感じる。
 この日記はしばらく書いていないと文体を忘れてしまって敬体で書いてしまうこともよくあるけれど、基本的には常態で書くことにしている。その理由としては、敬体を使うと形容詞をうまく丁寧に表現できない、という点が大きい。だが、敬体で書かなければいけない場面というのも世の中には沢山あり、とても悩ましい。
 日本語でまともに見られる文章を書こうとすると守らないといけないルールがいくつかあるが、守ろうとすると文を書くのが非常に難しい。

  • 同じ語尾が連続しないこと。「〜だと思います。〜だと思います。」みたいなのはダメ。
  • そもそも、同じ言葉を意味なく多用しないこと。例えば、一度「しかし」を使ったら、段落が変わるぐらいまでは使わない。
  • 否定形の接続語を連続させない。

 などなど。もっとも、これは自分が文章を書いているうちに、なんとなくこういうことをしたら妙な文になると感じたというだけの知見であるので、一般的なものではないかもしれない。日本語はかっちりとした正書法がないので、明確に間違いであるともなかなか言えないだろうけれど。
 こういったルールを守って文章を書いていると、穴だらけの道で穴を避けながら自動車を運転しているような気分になる。ホントはもっとスピードが出せるはずなのに、変な制約が付いているせいでスピードを出すことができないようなイメージ。
 こういうルールはたぶん、どういう文章を読んで育ってきたかによっても変わってくるはずで、例えば「全然大丈夫です」みたいな表現はこれからの世代にはオーケーになっていくのかもしれない。しかし、文章を書く上で普遍的なルールというのもあるような気がしている。例えば、英語であっても同じ言葉を多用することは望ましいことではないように感じる。どこまでが変えられる(意味のない)ルールで、どこからが普遍的な変えられないルールであるのか、という境目には興味がある。また、普遍的なルールはどういう理由で普遍的であるのかを知りたい。違う言語で同じルールが存在するということはなにか偶然ではない理由があってもおかしくなさそうであり、その理由が知りたい。